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株式会社キャストフロー代表取締役 中島による、  労働移民の歴史②

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株式会社キャストフロー代表取締役 中島大介による、『労働移民の歴史』 第2回目は、日本における労働移民(海外に出ていった日本人)の歴史についてです。

 

② 日本における労働移民(海外に出ていった日本人)の歴史

 

戦前及び終戦直後の日本は移民送り出し国であった。最初の海外集団移民は明治元年に横浜居留地の米ヴァン・リードによる153名のハワイ移民であるといわれている。

明治以降、日本人の人口移動には3つの流れがあった。北海道への移民、都市への人口集中、海外への移民の3種類である。世界の移民の歴史で見たように移民送り出しの根底には、送り出し元と送り出し先の経済格差が存在し、経済レベルの低い国から高い国へとチャンスを求めて人口が移動するのが自然である。ところが、日本の移民の場合には、日本よりも明らかに経済レベルの低い国へ移民が送り込まれたケースが多い。当時の日本では人口過剰問題の解決のため、国家が移民政策を推進したために受け入れ国との交渉や移住地の情報不足によってその様な事態を招いたと考えられる。日本人によるハワイ開拓史・南米開拓史また、当時地上の楽園と言われていた北朝鮮など、海を渡った日系移民1世の苦労は想像を絶するものだっただろう。戦中日米開戦に伴う日系人の立ち退きや強制収容などの排日運動にあった移民たちも同様である。

また、戦前日本における植民地支配による移民としては「満蒙開拓団」があげられる。敗戦後のその日本人移民たちもシベリアへの抑留など大変な苦労をすることになった。

 

戦後日本が経済の復興と自立を達成し、経済の基調が高度経済成長へと変化するとともに日本国内での雇用機会が拡大。所得レベルも向上していく中で海外への移民の送り出しも消滅していった。西ドイツでは、戦後の経済復興と高度経済成長期に大量の外国人労働者を受け入れを行ったのに対し、日本は高度経済成長期にも外国人労働者の受け入れという選択をしなかった。

要因としては、戦後の復興・経済の自立も目標にした政策を遂行し、産業構造を高度化させてきたことがあげられる。敗戦による国土の疲弊から「工業国家」に変身したことが、過剰労働人口を海外へ放出する構図から労働力需要を拡大させて労働人口の伸びを吸収する構図へと転換させたのである。高度経済成長の過程で京浜・中京・阪神などの太平洋ベルトに重化学工業への大型投資を行い、地方の新規学卒者を都市圏に就職させる、さらに所得の分配の公平性を担保、農業から工業への産業部門間労働力移動などの政策をとったことにより、海外からの移民の受け入れをすることなく、ほとんど日本人の労働者のみで高度成長期の雇用の安定を図っていった。

 

、、、、、次回に続く。

 

 

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